【311の被災地での現実】

こちらの文章はすべて、6年前のあの日に被災をしたオーストラリアの方の取材記事を写したものです。真実がすべて書かれておりますので、シェアをさせて戴きます。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/11/311-for-the-historian_n_6845278.html

■「日本人的な美徳」の嘘

――この震災を経験して、日本という国に対して、日本人に対して感じたことはありますか。

私はそういう考え方を否定する。結果としてそう言わないと説明できないものもあるだろうけど。戦国時代の日本人と今の日本人は同じ気質ですか?

――違いますね。

違うよね。タイムマシンに乗って100年前の日本に戻ったら、生きていけますか?

――難しそうです。

東北の農民の古き良き伝統みたいにトイレットペーパーをやめてお尻を縄でふきますか? 「日本人の気質」と言われるものは、その時々の社会的状況に過ぎないんです。自分の知っている過去20年間くらいのものを、都合よく気質と言っているだけ。

避難所の中で日本人がとても行儀よく、慌てず、パニック起こさず、と言われましたが、アメリカを直撃したハリケーン・カトリーナの後に運動場に集まった人たちも同じでした。被災後に多くの人たちは実は非常に秩序正しく行動するというのが災害研究の常識です。じゃあ、そういう社会規律が崩れる条件はなんだろうか。極限状態だったならば、みんな立派にしていただろうか?

実際には、盗難、略奪、いろいろあったんです。避難所の中で子供の泣き声が気になって、お年寄りが刃物を振り回したとか。私も覚えています。避難所に入ったときの、ものすごい緊張感。もう、爆発寸前の火山です。そんな、清き正しき律儀な日本人、なんて状況じゃない。ギリギリのところで規律を保っていたんです。

外国人に関して言えば、尖閣諸島と竹島問題とかが、あの時点で今の状況になっていたら、どうなったものか。実際、当時だってデマがTwitterで流布していました。仙台でも摩擦が生じたけど、爆発点に達する前に解消されて大事に至らなかったことがあった。だから、日本人の気質とか、自分にとって都合のいいものを繋いで美化しても意味がないと思います。

東北で、何であれだけの状況になっても外国人が大きな問題にならなかったかというと、地元との繋がりです。もし自治体が、多数の外国人を受け入れながら、地域との関係性を作ろうとせず、最初から投げ出していたら。私は考えただけで恐ろしい。

morris

――地域との結びつきがあれば、正しい行動をする?

そんな単純なものじゃない。仙台では留学生が小さな地元の町内会の避難所に密集したとか。中国人研修生が30人いるところで夜通し泣いてたから迷惑だと。そういうことが起こった時に対処する能力があるかどうかです。中国人研修生の場合は、避難所として指定された場所に、中国からの物資が入って、研修生たちだけで食べきれないので、近くの人たちに配った。そこで、「悪い人たち」が「良き人たち」に転換した。

――ほんのちょっとの……

ほんのちょっとだけの差なんですよ。私自身、地元の人から「外人だ!」とか「どこから来たんだ?」って言われたことは一度もない。津波の後も、道ですれ違ったら、「ご無事でしたか」。それだけ。「お互い、無事でえがったね」って。

もしあなたが被災地にいれば、あなたは被災者。被災者とそうでない人しかいないんです。外人・日本人という差異は外から持ち込まれたものです。

■「歴史は、ただの過去じゃない」

――歴史家として、この4年間の活動はどんなものでしたか。

歴史学者としての役割は、史料をきちんと残していくこと。これは震災に関係なく、ずっと取り組んでいます。

地方には、先祖からの大事なものだけれど、どういう意味があるのか、どう保存するべきかわからずに悩んでいるって人がいるんですね。そこに歴史家が、あなたの持っている史料はこういう内容が書いてあって、こういう意味があって、だから大事です。こうすれば長期保存できますよ、ってやるとその人たちがとても喜ぶ。

震災の直後、牡鹿半島の向こう側、あの、多くの子供が亡くなった大川小学校の近くに行って、地元の人に会いました。津波でやられてコンクリートの基礎しか残っていないようなところでね。何万点もあった史料は全部屋敷ごと流された。幸運なことに、その史料は震災の前に、石巻市史を作る時にデジタル化していたから、それを印刷して持ち主に渡したんです。

持ち主の方は、食べ物もままならないし、着てるものも全然替えてないでしょうし、避難所暮らしだし。でも、それを受け取って「救われた」と言った。その人にとって、先祖代々から引き継いできたその史料が、自分たちの生きた時代に流された。その史料には、自分の一生だけじゃなくて、系図が何代まで遡れる。それを証明するものが残ったというだけでも、何かが「救われた」って。

津波や災害は、人の尊厳まで奪うんです。

支援というと、水でしょ、食べ物でしょって言われる。たしかにそうだ。非常時に、こういう尊厳に関わることが重要だということは言いづらい。でもそこには、その家の人たちだけじゃない、地域全体のアイデンティティというのがあるんです。それを失ってしまったら、戻る人たちも戻ってこない。地域として立ち直れない。

今の自分は何者なのか。それがわからないと人は彷徨う。「自分たちはこういう人たちだ」と、たいした根拠がなくても、手がかりがあれば立ち向かっていけるんです。

今も、冊子にするために史料をまとめて、解説を書いているんだけど、これは地元貢献だと思っている。全く読まない人もいっぱいいるでしょう。でも、自分のルーツを辿りたい、興味のある人たちにとってこれはアイデンティティを取り戻すための、大事なもの。歴史は、ただの過去じゃない。いまを生きる私たちの自己認識、そのものなんです。

tagajo 2011

■そして歴史家として、震災を見つめるということ

――歴史家として、東日本大震災をどう捉えていますか。

一番の問題は、地域経済・地域社会にどう影響するのかということ。立ち直れるか、そうでないか。明暗はすでに自治体によって分かれ始めています。

非常に冷徹な言い方をすると、今回の震災は時計を20年から30年間進めただけ。だから、復興は、東北が東京の植民地であるという、従属関係を組み直して、地域が独自に成り立つように組み替える必要がある。元通りに戻すんじゃなくて、元の関係を克服して持続可能なものにしなければ復興は袋小路だと思うんです。

もう一つは、この教訓を覚えるか、覚えないか。今回の震災でも、明治や昭和の津波を覚えているところと覚えていないところで明暗が分かれた。

人は簡単に、「忘れてはいけない」と言う。でもね……人は悲惨なできごとを忘れないと明日へ向かって生きていけないんです。私自身の記憶もかなり書き換えられているし、潜伏しているんです。

――この4年間で。

そう。この4年間で。

あれだけ鮮烈な経験をして、忘れなきゃ生きていけない場合だってある。子供を亡くした方とか、その方々は引きずるんです。3.11で私自身は何の被害も受けてないのにそれを冷静に語れないかというと……。

……実は私は10歳の時に父が目の前で帰らぬ人となるのを見ているわけ。私にとって、それが重なっているんだろうと思うんです。パカっと開けて頭の中の配線は確認してないけど、たぶんそうだろうと思う。

だから、私個人は、忘れたい、でも忘れられない、そうやって死ぬまで引きずるんです。

でも、地域としては一生懸命、風化させないためにやる。歴史家としてもね。実際、今回のことについて残した書物が100年後に読まれるかというと、読まれないでしょう。次に、大きな災害がどこかで来たら、東北は忘れられます。置き去りになります。阪神大震災だって、関東の人にとっては風化しているだろうけど、神戸の人たちと話すと、やっぱりまだ引きずっている。

――20年ですね。

うん、20年。それを経験した人は生涯忘れられない。だけど今、いろんな祈りの行事をやってはいても、それを直接に経験した人がいなくなったら距離がグッと遠くなると思います。それはやむをえないんです。

ただ、許せないのは、原発を建てるために過去の津波被害を過小評価してきたこと。

歴史の記録は確かなものではないんです。モヤの中でなにかをつかむような作業です。そこからわかるのは、福島原発を建てたところは慶長三陸地震(1611年)の津波をかぶってるはずです。ただそれは地名とか、神社の名前とか、そういうものからしか再現できないですが、何かは残されていた。それを無視して原発を建てた時点から、慶長の津波はなかったことになった。記録から抹消されてきたんです。あのようなことは、絶対にやってはならない。

それがこれからの、私の歴史家としての使命です。

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